書評報告(京都歴史学工房)

またしてももはや昨年のことになってしまいましたが、京都大学人文科学研究所で行われた京都歴史学工房にて、『「紛争化」させられる過去』(橋本伸也編、岩波書店)の書評をさせていただきました。リンク先を見ていただければわかる通り、この本はソ連/ロシア・韓国・フランス・オーストラリア・東南アジア・エストニア・日本における記憶の政治、あるいは政治・外交問題としての歴史認識論争を扱ったものです。どう考えても私では役者不足もいいところです。なぜこれの書評が私に回ってきたのだろうと考えると恐ろしいものがあります。が、この本を繰り返し読んで、どのような問いを、なぜ問うのか、そのためにどんな対象を選び何を分析しているのか、その問や発見された事柄は何に関連しているのか、といったことを考えるのは、大変面白く、得難い機会でした。編者の橋本先生と、コーディネーターの金澤先生・藤原先生に御礼申し上げます。
この本は「近年のグローバルな政治の場を彩るのは、世界の各所で過去が政治化され紛争化させられる実にさまざまの局面である。本書は、こうした現代の国際関係と政治の焦点としての過去の取り扱いのはらむ問題性を、記憶と歴史の政治家と紛争化という視点から多角的に論じようとするもの」(p.vii-viii)で、目的は「過去が政治化され紛争化させられる様相を、ポスト冷戦期の世界に固有の新たな特徴を帯びたものとして適切に捉えること」(p.163)です。そして「我々は、歴史が政治化され紛争化させられる時代に生きている。そこで争われているのは、過去に仮託された現在に他ならない。そのような中で歴史家たる者の役割」(p.186)への問いも提起されています。詳しい内容は本に当たっていただくとして、大きな論点としては
・歴史認識と国内・国際政治との関係
・過去の事実についてのただ一つの正しい理解があるのか、それとも多様な解釈があるのか
・どのようにすれば歴史認識論争から多少とも実りある(いたずらにナショナリズムや差別・植民地主義や排外主義を広げるだけでなく、政治的和解や歴史学的知見をもたらすような)結果が生まれるのか
・歴史研究者の役割とは何なのか
といったトピックが論じられています。
また、関係する話題としてはやはり政治・外交史としての歴史認識論争や、「下からの歴史」としてのオーラルヒストリー、そして歴史におけるポストモダニズムといった古くて新しい(?)問題も挙げられます。
そして、当日には詳しく述べられなかったのですが、このような歴史認識論争が、一種の民主化というかポピュリズム的な、「私の被害を述べる」(=被害体験が聞き取られる)ことが可能になり、英雄が被害を受けた人々の中に見出されるようになった、そのこと自体は素晴らしい変化の中で、生まれてきたということの深刻さは、この本の通奏低音となっているように思います。イデオロギーからアイデンティティへと、政治的な言葉の使われ方が変化していくことによって、個人の被害をそのようなものとして語れるようになった。しかしそれがいかにして何をもたらしているのか。この点も、この本が取り上げている大きな話題だと思います。
繰り返し読む中で頭に浮かんだのは、記憶と歴史と過去を切り分け、それぞれが歴史学研究の話題になりうるだろうということでした。個人であれ集団であれ、何が記憶されたり歴史にされたりするのかということ自体も研究の課題になります。
それに関連して、多様な歴史叙述の並立は可能なのか、それとも過去についてのただ1つの真実の理解なるものがありうる(あるべき)なのかという点も興味深い論点だと思います。実は以前、勤務先の学生さんから「あなたは歴史学の事実は1つなのか複数なのか、どちらだと思うのか」と問われたことがあります。私は「無限に複雑に記述できる1つの現象がある」、かつ「ただし、何をどのように記述すべきかは、その現象を記述する状況が決定する」と思っています。
そして、この本はまた、学術と政治の関わりについても問うています。紛争化「させられる」過去とはいったい何なのでしょう。どのような状態なら、過去は紛争化しないのか。紛争化しないのが望ましいのか。学術研究なら過去は紛争化しないのか。しない(あるいは政治的な紛争とは異なる)のであれば、それはなぜ、いかなる点で? こういった点について考えることは、研究者と政治運動との関わり(関わりたくない・関わるべきでない・専門家として論文や書籍等を通じて禁欲的に関わるべき・専門家として積極的に関わるべき・活動家として(=非専門家として、私人として)積極的に関わるべき などなど)についても考えないといけなくなるのだなあと思います。
フロアからは、現在の東欧における歴史学と政治学との関係や、過去が「紛争化しない」状態とはいかにしてもたらされているのか(それは望ましい状態なのか)、歴史学者は歴史改竄主義とどう渡り合えばいいのか(歴史改竄主義は歴史的な事実について争っているかのように見せているだけで、実際のところ重要なのは過去の事実ではないから)といった、非常にアクチュアルで激しい議論が交わされました。私は、自分には歴史叙述はできないけれども、歴史を聞いたり書いたりするプロセスなら、社会学的に見ることはできるかなあ、それだったら歴史学者のお役に立てるかなあ、と思っています。

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