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永野三智さんとの対談

 だいぶ間が空いてしまいました。
 先週の土曜日、水俣・相思社の永野三智さんと、大阪でお話しさせていただく機会を得ました。永野さんはスーパーデラックスいい人でした。何度も私のことを「いい子なんですよ〜」と言ってくださったんですが、いやそれ永野さんのことやで!私けっこうイケズらしいで!(知らんけど)と思っていました。
 すごくたくさんお話させていただきました。当日の話題は、おそらく「証拠と証言」「行政」「当事者性」だったと思います。話した内容自体については、そのうちどこかで公開されるかと思いますが、その時に考えたことをいくつか、文章にまとめておこうと思います。

 まず「証拠と証言」について。永野さんは「証拠ではなく証言を集めたい」と繰り返しおっしゃっていました。私が「日常、私たちは誰かの過去の体験を疑わないですよね」「私が「昨夜、私は銭湯に行った」と言って、誰かが「本当に?」「証拠はある?」と言ったら、変な感じがしませんか?」「過去に限らず、誰かの発言を疑うとしたら、普通は相応の理由があると想定するのでは」みたいなことを言ったら、永野さんが「いいことを聞いた」と、たいそう喜んでくださいました。「普通、私たちは誰かの過去の体験についての発言を疑わない」「疑うのは例外」という話は、大学院に入った直後、当時のゼミの先生がお話しになったことです。私は当時たまたま、歴史修正主義(否定主義、歴史改竄主義)について考えていました。先生のお話しを聞き「本当だ!いつ疑うんだろう?」「嘘か本当かも大事だけど、嘘か本当かが問題になる状況について考える方がいいんじゃないか?」と思いました。そこから「そうか、過去の検証は歴史学の専門だけど、社会学は過去の特定の出来事が特定の時期に問題にされる状況を調べればいいんだ」と思うまで、そんなに時間はかからなかったように思います。
 永野さんがあんなに喜んでくださるのは、水俣病の患者さんの訴えがいかに認められず、疑われているかを示している。だからそれ自体は嬉しいことではない。でも、10年前に私が「これを知ることができてよかった」と思ったことをお伝えして、喜んでいただけたのは、社会学に少しでも関わるものにとって、とても嬉しいことでした。

 子供の時から、自分が「朴沙羅」なのに、戸籍上は違う名前なので、役所では「朴沙羅」などという人はいないことになるのが不思議でした。外国人ボランティアとして通訳・同行させてもらっていた時は、役所によって(窓口に誰がいるかによって)かなり対応が違うと感じたこともありました。行政組織の決定が個々の人生にもたらす影響はとても大きく、求められる手続きも煩雑なのに、実際にやっていることは、申請する側から見たらすごく雑な気がする。昔からずっと、そのギャップが不思議です。人権を守るというのは、書類を揃えて役所に持って行って出すこと。望ましくは、向こうのマニュアルにだいたい沿った(これならマニュアルに沿っていると向こうの裁量で判断可能な)書類を出すこと、もっと望ましくは、そのようなマニュアルを書かせるように事前に交渉することなんだろうな、と感じていました。
 大事なのは現場の職員さんを動かすこと。窓口の奥にいる本丸は、個人では動かせない。その動かなさは、あたかも強固な「国家意思」なるものがあるかのごとく感じさせるけれども、鉄壁なのはマニュアルであって、そんな強固な組織は(陰謀論者の頭の中以外)世界のどこにも多分ない。どこもかしこも、実はかなりいい加減で、それぞれの現場におかれている個々人の必死の努力で何とか崩壊せずに維持されている。だから、とりあえずは現場にいるこの人を説得し、この人が私の味方になって本丸に「ちょっと裁量きかせてくださいよ」と言ってくれないか試してみる。それが無理でも向こうのマニュアルに何が書いてあるか推察できる程度の情報を得る(職員さんが非正規の場合、難しいかもしれないんですが)。そういう風に考えると、何か楽にならないだろうかと思います。
 たくさんの人を動かし、大きな規模の直接行動をするのは楽しい。小規模な集団で議員や職員と交渉するのはコスパがいい。それで何を動かしどこに変革をもたらすかというと、世界を動かし人類に変革をもたらすのではなく、役所の職員さんを動かしマニュアルの文言に変革をもたらすのではないか。行政に関わる人々はこちらに偉そうに振る舞うように見えるし、くだらないほど官僚的なくせにザルな気がする。でも行政なしには私たち人民は権利を失う。あの組織は倒す対象でも恐れる対象でもない。こちらにはよくわからないロジックと、開示してもらえれば手に入る資料を持ち、調査結果を公開したら何かの運動の役に立つ可能性のある、とてもいい研究の対象です。
 でも、裁量や「個人」でいられるか否かは、その人の雇用条件に左右されるだろうなあ。

 社会運動は決して、いかなる意味においても「わがまま」ではない(逆説や皮肉であったとしても、使っていい言葉とそうでない言葉があります)。ただし、その敷居は可能な限り低く、また行動の種類は多様なものが知られていなければならない(でないと続けられない)。もし万が一、研究で得られた知識が運動のお役に立つことがあるなら、私はとても嬉しい。できれば自分の価値観と一致するような運動の役にたつ研究をしたい(その対象が知的に面白ければ。あくまでも面白さを優先してしまいますが)。でも、自分の政治的意図を自分の研究のレベルの低さの言い訳にするのはクズの所業。政治的正しさは、学問的正しさと絶対に別のものでなければならない。それは、学問の強さを保つためです。もっと直裁にいうなら、別の武器を使って別のところで勝つためです。政治的正しさに持ち込んで勝てるのは、すでに強い人が、守られたところで勝負する時だけではないでしょうか。

 最後には、私が人生で逃げていた話題である「当事者性」が主な話題になってしまいました。「いかにして当事者にならないか」と「いかにして当事者を作らないか(当事者を頑張らせないか)」を、もう少し詰めておけばよかったかもしれません。
 私にとって調査や研究は、私が関心を持たざるを得ない事柄に、当事者にならなくても、支援者にすらなれなくても、関わることのできる手段です。なぜなら、研究で問われるべきなのは問いと答えであって、書き手の属性であるべきではないから。完璧な研究などというものは、定義上あり得ない。だから、批判されても平気でいられるものを選ばないといけない。少なくとも、しばらくしたら理屈をこねるふりをできるくらいには平気でいられないといけない。何かの当事者が、研究対象としてその問題を扱って、同業者から批判されたらキツい。説得しなきゃいけないだけでしんどい。でも同業者から批判されず、同業者を説得しないで済む研究はたぶんない。しんどくなるのを防ぐためには、自分は当事者にならなくて済むようにしないといけない。
 だから、私にとって研究はありがたい方法なのです。私は研究という方法を武器に、私の気になるこの問題に向き合うことができる。研究である以上、私の役割は決まる。私は当事者にならなくていい。私は剥き出しで、しんどいあれやこれやに直面しなくていい。
 当事者は、生きているだけで、周囲の人に何かを伝えている。それは、ものすごいことです。すでに何らかの被害を受けている人に、それ以上を求めるのは、制度なり支援なりが不足しているからではないかと思います。誰かの頑張りが評価されるのは、制度に不備がある時ではないでしょうか。そこを充実させる試みのないまま当事者に語らせて、何かをなした気になるのなら、それは怠慢と言われる可能性がある。 当事者にしか語れないことに頼り過ぎてしまうと、当事者が死んだ時にその運動は終わることになる。被害の体験を聞いた人は、被害者ではない(むしろ、聞くまで知らなかったのなら、加害者か傍観者)。でも、聞いた(応答)責任を、個人として追わねばならない。だから、当事者に頑張らせないのが大事、当事者ならざる自分も頑張らないのが大事。
 当事者にしか語れないことはある。しかしそのことや、当事者が何かを語ってくれることは、被害を受けていないが語りを聞いてしまったり何かを知ってしまったりした私の責任を免除しない。私たちはその責任を、日々ごく小さいやり方で果たすことができる(本屋で平積みになっているヘイト本の上に反ヘイト本を載せるとか、ちょこっと署名するとか、少額を寄付するとか)。
 大事なのは続けることなのでしょう。できれば個人ではなく団体で。「世の中は根気の前に頭を下げる事を知つていますが、火花の前には一瞬の記憶しか与へて呉れません。うんうん死ぬ迄押すのです。それ丈です」(by夏目漱石)。100%(全力で運動に取り組んでそのことで頭をいっぱいにする状態)でも、0%(しんどいからそのことについて考えるのもいや、鬱っぽくなって動けない)でもない、エフォート3%くらいで死ぬまで毎日ずっと続けられるような、そういう運動のあり方が、もっと手軽に紹介されたらいいのですが。日本全国成功した運動実例集とか、アメリカで出版されているその手のマニュアルを訳すとか。誰かが。私じゃなくて。私は運動も活動も、研究者としては関わらないから。

 雨の降る中、決して安くないイベントに来てくださった方々に、心から感謝します。企画してくださった牧口さん、遠くからいらしてくださった先生方や学生さん、運営してくださったスタッフの方々にも、御礼申し上げます。

国際結婚を考える会 秋の関西例会

11月4日に、国際結婚を考える会・秋の関西例会「重国籍のリアル なってしまうこと、選べないこと」を企画・報告させてもらいました。いわゆる「ハーフ」や重国籍が(だいたい悪い方向で)注目される昨今、実際のところ何に直面し、何が問題で、どうなってほしいのか、話し合いたいという気持ちから企画しました。大阪大学の岡野(葉)翔太さんからは、内容の詰まった、しかし明確でわかりやすく、しかも辛辣で、かつユーモアに富んだご報告をいただきました。
実際に教壇に立っていても、多様な出身の学生さんに出会うことがあります。友人の中にも多様な国籍のカップルや家族がいます。いつも国籍の話をしたり書いたりするときは、そういう人たちを思い浮かべています。重国籍については、割と有名な方でも調べずに書いたり話したりなさることがあるようで、当事者は困っちゃうよね、と。
じゃあお前は何に基づいてどう考えているんだよというと(法律の話なので、素人が考えも何もないと思いますが)次のリンク先を読めば、だいたいのことはわかるだろうと思っています。

「蓮舫氏の『二重国籍』は問題なし。説明責任は法務省にあり:奥田安弘×荻上チキ」

投稿論文の報告

・書評論文
昨年3月に関西ジェンダー史カフェで『古都の占領』(平凡社)について報告させていただきました。でも一度報告するくらいでは言い足りない、と思い、勤務先の紀要に書評を書きました。2018年7月に刊行されました。以下のリンク先から読めると思います。
神戸大学神戸大学学術成果リポジトリKernel

・論文刊行
今年1月、ジャーナル『理論と動態』第11号に「そして「父」になる:出生後認知による日本国籍取得手続きから見る戸籍制度」が掲載されました。
研究所ウェブサイトはこちら
タイトルの通り、生後認知によって日本国籍を取得する手続きについて書いたものです。長年お世話になっている京都YWCA/Asian People Together:APTとの関わりと、畏友からの協力で書くことができました。また、調査データや法律等の条文を行政社会学研究会(こちら)で報告させていただいたことで、論文の形にすることができました。主催者の酒井泰斗さま、研究会の皆さまに感謝します。

取材などの御礼その2

諸々のメディアで取り上げてくださったことへのお礼が続きます。

・ウェブインタビュー記事 wezzy
普通に生きている人たちが教えてくれるマジカルな過去の世界
「「青い芝」の戦い」(記事はこちら)や在野に「学問あり」(記事はこちら)など、興味深く重要なお仕事をなさっている山本さんからインタビューをしていただきました。山本さんからは、まだ学生の時にαシノドスでお世話になったり、『最強の社会調査入門』(おかげさまで5刷になりました!)のインタビュー(「社会調査」をやってみたいと思ったら)をしていただいたりと、これまでもご縁がありました。山本さんの人徳と技術にうっかり乗せられ、いろんなことを喋ってしまいました。「マジカルな世界」という視点と、「本当の意味を理解する」という話題に切り込んでいただいたのは山本さんが初めてです。私はどちらも思い入れがある話題なので、そこに目をつけてくださったのはとても嬉しかったです。普通に見える人たちがとても面白く、聞こえてくる会話や目に入る人々の振る舞いにしょっちゅう一人で笑ってしまうので、その点では社会学に向いているかなあと思います。過去の世界はマジカルだ、ということは、私たちも今とても不思議な世界に生きていて、別に違う世界でもいいはずだ、と思えるようになってから、現実って面白いよなあと思うようになりました。山本さんは、そういう気持ちを思い出させてくださいました。ありがとうございます。

・ニューズウィーク日本版
企画に合うコメントを求めていないか? 在日コリアンの生活史が教えてくれること
こちらは取材ではなく書評ですが、取材される方の視点から読んでいただいた記事です。こんな読み方もできるんだ、という驚きと、「そう、それなの!」と膝を打つようなオチとが組み合わさって、私の仕事じゃないのに自慢したいような文章を読ませていただきました。この記者の方の記事を他にも興味深く読んでいたことがわかり、あの記事の書き手さんに読んでもらえたんだなあ、と嬉しくなりました。この場を借りて御礼申し上げます。

・文學界 エッセイ「カズコさんのこと」
私は文学というものが苦手で(しつこいようですが、物語は「英雄が現れた!戦った!死んだ!」みたいなものしか読めません)、まさか文學という文字の入った雑誌からエッセイのご依頼をいただくとは思ってもいませんでした。担当の編集者様から「何について書いていただいても構いません」と言っていただいたのを真に受けて書いてしまいましたが、せめて事前に雑誌名をGoogle検索するべきだった、と後悔しきりです。でも、他に思いついた内容が「関西人なのに面白いギャグを言えない(特にツッコミ力がない、返しが下手、しかもボケの才能もない)」とか「年相応の装いがわからない(そもそも他人の目に自分がどう見えるか想像がつかない)」とか、それ誰が聞いても絶対おもんないわーと言いたくなるようなものだったので、仕方ないんです。だって自信を持って言えるようなことや、わざわざ不特定多数の方に訴えたいようなことってそんなにないし(注)、と思ってしまうんです。あと私の日常はどこをどう切り取っても絵にならないっていうか、おしゃれ感皆無、キラキラ感ゼロなので。
しかも締め切り日を過ぎてから急いで書いて、こりゃダメだと思って朱筆を入れまくり、担当者の方から「綱渡りでした」と言われる始末でした。申し訳ありません。
お察しのことかと思いますが、母方も大概アレなんです。

(注)最近あった「わざわざ不特定多数の方に訴えたいこと」は「ヨーグルトにドライフルーツをつけて一晩おくと、ドライフルーツはヨーグルトの水分を吸って柔らかくなり、ヨーグルトは水分が抜けて濃厚になり、ついでにドライフルーツの甘みも加わってそのまま食べられるデザートになる」です。あと京都市左京区、叡電元田中駅すぐ横の焼肉屋「ちどり亭」ではものすごく美味しい肉が食べられます。肉だけでなく、何を食べてもおいしい。